寺町・谷中の一角に位置する初音山東漸寺觀智院
初音山東漸寺觀智院は、古くからの寺町として知られる谷中の一角にあります。もと醫王山東漸寺圓照院といい、慶長16年(1611)二月十五日、照譽法印によって江戸神田北寺町に開創されました。照譽法印はやがては百万都市として発展を遂げる江戸の街の姿を予見し、諸国から集まる人びとに宗祖・弘法大師の教えを広めようと考えたでした。 東の琵琶湖といわれた不忍池から日暮里へ向かう「谷中の径」は、江戸時代の頃から、文人墨客たちが四季おりおりに杖をひいたと伝えられています。 觀智院はこの「谷中の径」に面しており、当寺へ参詣に訪れる人びとは、みなこの「谷中の径」を辿ったのでしょう。 御府内21所霊場巡拝 春秋の彼岸の頃になると、15、6人から30人位の手甲脚絆姿の善男善女が、霊場巡拝に歩く姿を、昭和の初期の頃まではよく見かけたと古老たちが語っています。觀智院は第6番霊場札所となっています。 江戸における弘法大師ゆかりの寺々を巡拝する、いわゆる霊場巡拝の慣わしは、元禄中年(1688〜1703)の中頃から始まったと伝えられ、「御府内21ヶ所」はその最初の巡礼路といわれています。 江戸府内88ヶ所霊場巡拝は四国88ヶ所霊場を写したものです。觀智院は第63番霊場札所となっています。
「谷中の火除不動」として
境内の不動堂には五大明王像が安置されています。明王の中心的な存在で、不動明王を中心に降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北)と配置されています。 不動明王は火を観想して動ぜず、あらゆる障害を焼きつくす大智の火を身から発する・・・・・・といわれ、大日如来の使者となって、悪を断じ、善を修して真言行者を守る役割になっています。不動尊信仰は平安時代からひろまり、とくに江戸時代以降は、人びとの広い尊崇が寄せられました。 当院の不動尊は、興教大師(覚鑁)の作と伝えられる尊像で、俗に「谷中の火除不動」とよばれ、参詣に訪れる人びとがあとを絶えなかったといわれています。
初音六地蔵
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、救済の手をさしのべる地蔵尊
天空を象徴する虚空蔵菩薩に対して、大地の惠を神格化した菩薩が地蔵菩薩です。釈迦が入滅したのち弥勒仏が下生するまでの無仏時代に、衆生済度を受けもつ菩薩として奈良時代の頃から人びとの厚い信仰が寄せられました。 山門左手に安置される胸から上の延命地蔵尊は、かつて不動堂に住していた行者が、不動尊の霊告によって境内から掘り出したもので、霊験顕かな尊像として知られています。その隣に、右手に幼児を抱え、左右の裾に2人の幼児が無心にすがりつく地蔵尊が、子供たちのすこやかな成長を誓願とする子育地蔵です。昭和58年秋の像立ですが格調豊かな尊像です。門前脇の六地蔵尊は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のどこにいても救済の手をさしのべてくれる地蔵尊です。人間は死ぬとこの六道のいずれかに行くといわれ、その六道のそれぞれにあって私たちを導いて下さるわけです。
11月29日夜、大風。本郷追分より出火して谷中まで焼く。明るく5時鎮まる。是を世に地震火事といふ
慶安元年(1648)觀智院(圓照院)は谷中清水坂(『〜雑記』参照)に移転し、万治年中(1658〜60)にさらに現在地へ移転します。延宝8年(1680)、12世・宥朝法印が入山し、寺運隆昌への活動が始まります。過去帳によると、この延宝8年以降に檀徒家が急増していることがわかります。その檀家層は士農工商のすべてにわたっています。 元禄11年(1698)、宥朝法印は、院号を現在の觀智院と改めました。圓照は炎焦に通ずるとの霊告を宥朝法印が夢中に得たことによると伝えられています。
当時の江戸の町は、常に火災の危機にさらされていたといっても過言ではなく、一概に宥朝法印の危惧を「杞憂」とはいいきれません。 元禄16年(1703)11月、大震災につづいて本郷追分と小石川から出火した火災は、おりからの強風によって江戸の町の大半を焼きつくしました。谷中の寺院の多くが消失しますが、觀智院は奇跡的に炎渦を免かれています。すぐれた僧の伝記等をみると、修行によって得た予知力をそれぞれが身につけていたことがわかります。宥朝法印は院号改めただけでなく、防火の備えも十分にほどこしていたのでしょう。
すべての階層の人びとの菩提寺として
これを機に、宥朝法印に帰依する人びとはますます増え、寺運隆昌の一途を辿ります。觀智院の「表間口三拾間、裏行ニ拾ニ間半、六百六拾九坪余—」の境内地に、「間口二間半、奥行三件」の土蔵づくりの本堂をはじめ、稲荷社などの諸堂宇が建立されたのもこの頃でしょう。 名外科医として知られ、古くから觀智院との檀越関係にあった奥医師・丸山玄棟(『〜雑記』参照)の外護によるところも大きかったであろう事は十分に推察されます。 享保5年(1720)5月22日、宥朝法印が示寂しました。入山いらい法灯を高く揚げ、檀信徒家の信施を得て奔走した宥朝法印が、現在にいたる觀智院の基盤を確立したといっても過言ではありません。当院ではその功績を永く伝えるため、「当山中興の祖」と申し上げています。
安永8年(1779)、不動堂が建立され、興教大師(覚鑁)の作と伝えられる不動尊像(『庶民信仰と〜』参照)が安置されました。江戸府内の寺院に安置される、不動尊を名不動とよび、つぎつぎと巡礼する慣わしがありました。觀智院に安置された不動尊も「谷中の火除不動」とよばれて、江戸文化が最も花開いたといわれる文化文政(1804〜29)の頃になると、江戸幕府はもちろん近隣からも参詣人が訪れ、門前には市がたつほどの賑わいになったと伝えられています。慶応4年(1868)江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立されます。江戸時代を通して、多くの寺院の外護にあたっていた武士階層が没落したわけで、全国の各寺院は一様に衰退していきました。
觀智院も境内地の官有地化、廃仏毀釈運動などによって多少の被害は受けますが、大店の商人をはじめとする、いわゆる町人階層の檀信徒が、23世・真興法印の下に力を結集して寺門を支えました。 大名や大身旗本の庇護に頼らず、すべての階層の人びとの菩提寺として、また祈願寺として法灯をともしつづけた觀智院の真の姿といってよいでしょう。
東京大空襲を乗り越えて
明治39年(1906)、24世・海隆法印が入山し、諸堂宇を建立、山容を一新しました先々代・石本海隆師が、日露戦争より帰還後の明治39年に觀智院入寺、古くなっていた本堂、庫裡、大師堂・不動堂の再建に着手し、大正年間に至って漸く寺容が整ったとき、関東大震災が起こりました。谷中は延焼をまぬがれ、檀信徒やほその他の人びとがつぎつぎと当寺に避難され、被災者の救済活動に専念しました。 昭和5年、海隆師が千葉県佐原市の観福寺住職となり、觀智院は高橋宥順が住職に就きましたが、昭和12年、支那事変勃発とともに宥順は出征し、終戦までの9年間、軍事生活に服しました。住職の出制中は、海隆師をはじめ法類、寺族が良く觀智院を護りましたが、昭和20年3月、東京大空襲のおりに本堂に爆弾の直撃、庫裡に焼夷弾を受けてしまいました。辛うじて大師堂・不動堂だけは難を免がれ、いまなお戦前のままの姿を残しております。
さいわい、本尊大日如来を初めすべての仏像、什器は残すことができました。終戦後、宥順が復員し、当時の総代(西澤画伯、万惣、万彦、万浦、万浅、万直、田中、中野)各位、ならびに檀信徒の皆様の協力によって、寺の復興に着手しました。その布教活動と合わせて幼児教育の重要さを痛感し、昭和24年、初音幼稚園を設置しました。現在の本堂は福島県佐竹侯の祈願所だったのを移築し、のちに階下を増築し二階建てとしたものです。後に平成に大規模な改修を行い初音ホールとして利用されています。